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「美醜の狭間の凄み」船瀬俊介(文明批評家)

―遂に陶芸は「伝統」を超え、未知の時空へ飛翔するー 新星、市川透は 陶芸界のピカソであり ゴッホであり ガウディである 船 瀬 俊 介(文明批評家)

「破壊」「創造」に潜む危険

「破壊」なくして、 「創造」なしーー。 これは、芸術に於いても、定理であろう。 しかし、言うは易く、行うは、難し。 「破壊」衝動は、 「創造」衝動に、 裏打ちされたもので、なければならない。 「創作」へのボルテージが、リビドーが、 作者を「破壊」へと、衝き動かすのである。 しかし、ヒトには、生存本能がある。 「破壊」は、常に「危険」を伴う。 それは、作者自身の存在にも拘わる。 危険極まりない行為なのだ。 特に、日本社会に於いて、突出は、危険である。 横並びを良しとする農耕社会に於いて、 半歩前に出ることすら許されぬ。 一歩前に出れば、叱声が飛び 二歩前に出れば、石礫が飛ぶ。 陶芸界に話を転じても、それは同じである。 伝統工芸という言葉がある。 作陶の風景など、まさに伝統そのものの世界である。 そこでは「匠(たくみ)」の技量が、尊崇を集める。 伝統の至技を極めて、卓抜の風趣を醸す。 世の称賛は、そのような孤峰の技法に集まる。 こうして、伝統工芸は、熟成、昇華していく・・・・・。

市川透、現代美術の時空間へ

しかしーー 市川透は、まったく異なる。 まさに、陶芸界に出現した異才である。 その作陶写真を観た瞬間、衝撃を受けた! わずか0.1秒。驚愕した。 「何だ! これは・・・・!」 異次元から出現したか。 宇宙から、飛来したか。 その感覚は、衝撃という言葉でも、言い尽くせない。 仰天!絶句!慄然・・・・・! そこにあるのは、 伝統破壊の極みであり、 美醜を超えた、凄みである。 ここに於いて、日本の陶芸は 「伝統」の殻を打ち破り、現代美術の時空間に躍り出た。 もはや、陶器、磁器、工芸さらに彫刻、絵画の区別すら無意味だ。 それは、まさに芸術(アート)そのものだ。 その存在そのものが、観る者の魂を衝き動かす。

「織部」、自由と悲運の末期

長い陶芸史の脈絡の中で、作陶が自由の天地を得た一時期がある。 それが、「織部」(桃山時代 慶長10年 1605~1624)である。 自由無碍な絵付、意匠、造型・・・・。 モダンアートを想わせる線描、色彩、筆致。 しかし、その命は、余りに短かった。 わずか、20年足らずで、地上から、歴史から消え失せた。 「伝統」の重さと枷は、その「自由」を、許さなかった。 ちなみに、「織部焼」の名は、茶人、古田織部に由来する。 彼は、戦国時代は武勇を誇る武将であった。それが、茶の道に身を転じた。 そして、利休に弟子として仕え、茶道を確立した文人として知られる。 彼は、繊細鋭敏な美意識の天才の一人であった。 その風趣は、茶器作陶にとどまらない。 趣好は会席什器、建築様式、作庭造園にまで多岐に及ぶ。 それは「織部好み」として、江戸初期にかけて、世上に一大流行を巻き起こした。 遡る天正19年(1591)、秀吉によって利休追放が下される。利休と親交のあった 諸将たちが、秀吉を恐れ憚り現れぬなか、織部は堂々と、師を見送った。 そこには、武人としての不動の豪胆さが見受けられる。 彼は利休亡き後、その遺志を継いで、茶の湯普及に精魂をかけた。 慶長20年(1615)、大阪夏の陣の折り、織部の部下一人が、豊臣家と内通していた、 という嫌疑で捕らえられた。連座して、織部も徳川方の密議を豊臣方に知らせたという容疑で捕縛される。そして、大阪城落城後、切腹を命じられる。 織部は、一言の釈明も行わず、従容と自害して果てた。享年73歳。 部下も処刑。さらに、織部の息子も斬首された。 「・・・・師の千利休同様、江戸幕府の意向を無視することが少なくなく、その影響力を幕府から危険視されていた・・・・」(『ウィキペディア事典』) その斬刑に、世間は震え上がった。 人々は「織部焼」を手にすることも、目にすることも、憚るようになった。 こうして自由を謳歌した「織部」は、はかなく消滅していったのである。

異空間から飛火した“隕石”

「詫び」「寂び」は、東洋美術の定理であり、定律である。 約束事は、守られなければならない。 花鳥風月は、その枠内に於いてのみ、成立する。 逸脱は、許されない。 「織部」の無惨なる末期は、まさに、その悲運である。 その後・・・・伝統美術の炬形の枠は、現代に至るまで、堅固に守られてきた。 しかし、しかし・・・・・ ついに、ついに・・・・・ 異才が、出現した。 あたかも、蒼穹の天空から飛来した隕石が、地表に激突するように。 そうーー、 市川透は、異空間から出現した隕石である。 それは、一撃で、日本の陶芸界を、打ち砕いた。 その作品郡を前に、佇み観れば、誰しもが驚愕し、ただ頷是するのみであろう。 同じ衝撃を、唯一、味わった体験がある。 それは、かの出口王仁三郎(~1948)の作陶を眼前にしたときの驚愕である。 王仁三郎は、知る人ぞ知る近代宗教界の巨星である。 新宗教、大本教教祖として君臨した。しかし、国民を軍国主義に狂奔盲動させた国家神道の側から、凄惨無比の弾圧を受けた。 悲運の教祖ながら、王仁三郎は、その書画、作陶にも神懸かり的な自由奔放な天才を示した。 その手になる茶器を一目観て、戦慄、わが目を疑った。 それは、もはや茶器でも陶器でもない。 正気と狂気を突き抜けた鮮烈な色彩と造型がそこにあった。 市川透の作品に邂逅し、当時の感動が既視感(デジャヴュ)のように蘇った。 両者に共通するのは、宇宙的な存在感である。 人間界を超え、異空間に通呈するような、気配と佇まいである。 そしてーー 市川の作品群は、その多彩さ、さらに、若さに於いて、王仁三郎をも凌駕している。 その鮮烈な色彩は、ピカソであり その心魂の叫びは、ゴッホであり その放埒な造型は、ガウディである。 世界の美術界は、この天才の出現に 皆、驚嘆するであろうーー。 (了) 船 瀬 俊 介(文明批評家)
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